狭い狭い人生

僕の人生はとっても狭いのです。
狭くて狭くて、
そこには僕一人しか入る場所が、
ないのです。


たまには誰か入ってきても
いいかなと思う日もありますが、
どうにも狭くて入りきれないので、
誰も彼も逃げて行きます。


そしてまた僕も、あんまり狭すぎるので、
その方がいいかなと、思ってしまうのです。

ひえらるきぃ

ホリエモンが投獄された背景というのは、
ヒエラルキーを飛び越えた金力なのではないだろうか。


つまり社会の階層としては、
例えば大企業幹部のロータリーのつながりのような、
人間関係上は決して上流にはいなかった堀江氏が、
特権階級と同等の権力行使を、そのありあまる金銭により、
行おうとしたことが、投獄の原因になったということだ。


それを言い換えると「法的に許されるからといって、
何でも赦されるわけではない。」という、
老害による発言なのだ。
それは決して間違いではない。


権力を持った人間が、自分の気に食わない人間を排除するのを、
止めたければ、それと同等の権力を手に入れるしかない。
それができない者が何をわめいたところで、
権力者にとっては痛くもかゆくもないし、
痛しかゆしということを下手にすれば、
投獄されるのが落ちということだ。


それは二度と逆らえないように痛めつけるのは
当然の措置と言えば、当然だ。
逆に自分が権力者の立場であれば、堀江氏とて、
同じことをするのではないか。
それが気に食わないなら、自分が人を好きにできるよう、
権力を握るしかないのだ。
これは人類が人類である限り、不変のことなのではないだろうか。

価値観の相違じゃ、すまないってこと。

極端な話、男は付き合ってないならいくら気持ちが移ろいでも
いいと思っている。
逆に女というのは、付き合っていなくとも、
気持ちを貫き通すのが愛だと思っている。


男に愛はない。
付き合っているか、否か。0 or 1。
明示的な契約があれば守る。
その代わり君を独占する権利があるよな。


女に契約主義は通じない。
好きか嫌いか、気持ち次第よ。
好かれたいなら、それなりに頑張りなさいな。


それでも日々カップルが成立して、
世界人口が60億人から更に増え続けているという奇跡。

ヤッターマン第1話

僕はタイムボカンシリーズが大好きなのだが、
時々???となることがある。


ヤッターマン第1話を観て欲しい。
ドロンボー一味登場のシーン。
トンズラーの縮尺がどう考えても狂っている。


ドロンボー一味は稀代の悪党の筈なのに、
突如現れたドクロベーから「泥棒の神様だべぇ」と
言われただけで信じてしまっている。


ヤッターマンたちはヤッターワンを作り上げた「のり」で
「正義の味方になろう!」という軽い動機だ。


まぁ動機云々はギャグアニメなのでご愛嬌だが、
第1話からあの絵コンテというのは、どういうことか。
それがタツノコクオリティなのか?
とはいえ、タイムボカンシリーズはいいなぁ。

孤独について

僕は自分自身を孤独な人間だと感じることがある。
親しい女性からも、そこを非難される。
心を開いていない、人との繋がりを大切にしない、
人の気持ちを考えていないと。
孤独感に苦しむというよりは、むしろ孤独を愛しているのが
問題なのである。
僕自身に苦しみはなく、孤独な生き方が、
僕を愛してくれる人たちを苦しめるのだ。


では、その孤独の源流はどこにあるのか。
それは僕の母だ。


僕の母は養子だ。
母の実の父親の妹夫婦(私の今の祖父母)の家に、
生まれてすぐ、養子にやられた。
母は物心ついた時から、両親や、
実の両親(当時は近しい親類が隣接して暮らしていた)の
様子から自分が養子と悟っていた。
しかしそれを誰にも打ち明けられないという状況が、
母を論理で全てを律する人間に変えていった。


何かしら一筋通して、そこから決して外れないように、
そういう生き方は、ともすれば頑なで孤独な人生だ。
だから僕の母は本当に孤独に生きてきて、
そして今も孤独なのだと思う。


母は僕の幼い時、時折「K-Tyは橋の下から拾ってきたんだよ」
そう言って僕をからかった。
僕はそれでよく泣いたもので、
これを家庭内暴力だったと考えていた時期もあった。
しかし、今になって考えてみると、
これが母の唯一の、養子であることの告白だったのではないかと
そう思えるのだ。


もちろん養子のことは父も知っていたし、
私も社会人1年目に知ることになった。
今では母とこのことについて話すこともある。
しかし、それでも、物心ついた時点から、
自分の出自を秘して黙さねばならなかった母は、
今でも独りぼっちなのだろうと思う。


そういう母の影響下で生きてきた僕もまた、
どこか他人と一線を画し、
論理や理屈を通して生きている。
決して、人の感情だとか気持ちにすがろうとしないのが、
友人や恋人からはまどろっこしく、時に憎く思えるのだろう。


しかし、もはやこれは人格なのであり、
或いは孤独ゆえに人外であることが宿命なのかもしれない。

岡田斗司夫:プロダクション方式

岡田斗司夫氏のFREEexは、
初めは素晴らしい企画に思えたが、
蓋を空けてみると単なるプロダクション化なのではないだろうか?


秋元治氏のこち亀などを見ても分かるが、
人気故にプロダクション化するわけだが、
絶対に魅力がなくなるのである。


なぜ魅力がなくなるかというと、
結局、当人の煌めきで作っていたものを、
他人、それもサラリーを貰おうという凡人、
が担うので、要は質が低下するのである。
(FREEexはむしろ社員がサラリーを払うのだが、
それは岡田氏にあやかろうとする凡人という点で、
払おうが貰おうが変わらない。)


某番組で岡田氏は自著について、
FREEexになってからの出版物は
かなりの部分を社員が書いていると言及していた。
そして現に社員が書いているブログの内容を見ると、
なんというか素人の作文といった具合だ。


個々人としては、それなりに知識や経験があるのかもしれないが、
岡田斗司夫水準から比較してしまうと、
どうしても見劣りするのであり、
それを岡田斗司夫ブランドとして使うと、
これは要するにプロダクション化による、
品質の低下としか言えないのである。