NEETの論理武装の穴

NEETの主張としてありがちなのは
「自分にできて、かつやりたいことが見つからない。
ゆえに勉強も仕事も訓練を受けることもしていない。」
というような命題がある。
部分的には私も同様の意見だ。
しかし、ここに大きな穴がある。


この主張を正当化するためには、
自分の能力を拡げている、
もしくはやりたいことを探しているという条件が必要だ。
しかし「能力を拡げる」「やりたいことを探す」
というのは大変だ。
勉強をするとか、旅に出るとか、
作品を作るとか、事業を起こすとか、
またそのための資金を稼ぐ必要などがある。
すなわち、正当にNEETである者は、
NEET的な努力や準備をしているのである。
そうした苦労を忌避するNEETには、
上述の正当化はできないのである。


しかし、実際にそうした正当化を必要としているのは、
自分の部屋に閉じこもって、延々と暇潰しをしている者たちだ。
このことがNEETへの認識を濁らせている。
すなわち、努力をしていて社会に支えられるべきNEETもいれば、
支えるだけ全く無駄なNEETもいるのだ。
NEETの定義について今一度見直し、
そこを区別しなければ前途ある若者をも
腐らせるのではないか。