人間の美徳

人は共感性を大事にする。
共感性は時に社会の潤滑油になる。
しかし、それは常に美徳であるのであろうか?

いじめはなんだ。
いじめは負の共感性の連鎖だ。
価値観の単純化と共感性を用いた、邪悪で無垢な人間の業だ。

大人になっても、いじめは存在する。
時にそれは学歴だとか家格だとか、とかく単純化しやすい基準を以って、さも当然のような顔でなされる。
いや、その当事者は心の底から、そうした単純な基準で個人を集団で差別(まぁ差別とはそういうものだからして、わざわざ「集団で」というのは変だが)することを当然のことと思っているのだ。
例えば、ある事柄について高学歴者の意見は熱心に聞いて、低学歴者には意見を言う権利すらないといった態度は、それとなく、社会のあちこち見られる。

動物の世界にも、バンドウイルカなど、いじめは観測されており、これは本能からくる行いかもしれない。
なるほど、強いストレス下で資本家に尽くし国の財政に尽くしている人々の中から、意図せずにいじめを行ってしまう者が出るのは、バンドウイルカの本能同様、人間の本能かもしれない。
しかし、本能に由来する行いだから許されるということは全くない。
本能的に反社会的な考えや欲望を持つ人々がいる。
彼らががそれを表出させたとき、社会はそれを徹底的に罰するではないか。
目的刑といいながら、そういう人々が更生して人生をやり直す権利すら実質的に剥奪しているではないか。
それならばいじめも罰するべきだ。
具体的には全ての国民の生活を365日24時間録音して、いじめのケースサンプルをデータ化し、コンピュータに監視させるのだ。
典型的ないじめのダイアログ、人間関係に該当した加害者を更生させるべきだ。
更生させるという名目の下に、まっとうな人生を取り上げるべきだ。
その結果、全ての国民が誰かを傷つけている(「誰かが誰かを傷つけている」というジャズナンバーが、ないか・・・)という結論に帰結したなら、それはそれでいいではないか。
きっと全国民が反省するであろう。

人・物・金のうち、物と金については経済学が、その効率性を研究している。
それでは人の、心の経済学も必要なのではないか。
体の傷害だけでなく、精神の傷害も、もっと真剣に厳密に取り締まるべきだ。
そして、その結果から学ぶのである。

人間はお互いを傷つけあっており、ヒトとして生まれてきたこと自体に罪があり、敵を許し、隣人を愛せというのは某宗教の教えである。
それを体現できない人間は知性だの学歴だの、大きい顔をする資格はない。
大きい顔をするだの、されるだのということにこだわってはいけないのである。
人が悩むのには必ず原因があり、その原因に執着することで悩みは益々広がるのだから、人生無一物の心で執着を捨てよというのも、また、とある宗教の教えである。