生きるということについて

生きていくということは、もがくということだろうか。
もがき苦しむ状態というのは、
その状況を打開する合理的な手立てが見つからない状態だ。
人の一生というのは、まさにそういう状態なのではないだろうか。


あざなえる縄の如き人生というのは正しいかもしれない。
しかしそれを苦労のあとには喜びが来ると取れば明るいが、
喜びが大きいほどにそのあとの苦しみがより辛くなると取ると、
全く救いのない話だ。


ウディ・アレンの作中に「人生は悲惨か、惨めかどちらかしかない。
僕たちは惨めであることに感謝しなくてはいけないんだ。」という
一節がある。
しかし本当に惨めなのは悲惨よりましなのだろうか。
時として悲惨な方が、例えば原因を起訴したりして、
充実した闘争につながることもある。
惨めな私などは、日々砂を噛みながら
俯いて、ブツブツと不満を自問自答するだけで一生を終えるのだ。


相対的にみて自分が誰かに対して優勢であっても、
そこに確固とした優越感が、
例えば自分は君主であるとか、自分は被害者であるとか、
そういう強い妄信がなければ、
事実として優勢であるだけで心は決して満たされないのだ。


では生きるということに、
私の人生というものには、
一抹の希望もないのだろうか。
ただ一筋の光明は、私がまだ若いということだけである。
若さを失って、世の中のことが本当に分かる時が、
心底絶望する時だ。