ディグニティということ

dignity;尊厳、高位、品位。
日本人というのは、この概念について疎いのではないか。
品性ということについて語って、
あまり共感を受けることがない。
実態としても、たとえば公衆の利益のために、
自ら人知れずゴミを片付けたりする人も、
往来には見出しがたい。
偽善的に大勢で群れて掃除をしたりすることはあっても、
品性というものを根拠に、
一個人として人類に対して奉仕しようとはしない。


仏教者がよく使う「人品」という言葉がわかりやすい。
すなわち「人品卑しい」という表現が、
品性に乏しく自分勝手なくせに善良で社会的な人格者であると
思い込むだけでなく、他者にもそうした認識を強要せんとする、
そういう人々の性質を端的に言い表している。


しかし、他者を「人品卑しい」と嘲笑する時、
そうした感情を伴う評価を下す精神性にも
人品の卑しさが潜む。


私は感情を伴う評価が嫌いだ。
よきにつけ悪しきにつけ、
また私から下すにせよ、他者が下してくるにせよ、
不快感を感じる。
これはなぜだ。
おそらくそれは、客観的根拠よりも、
感情の共感性の方が重視されるからだと思われる。
すなわち、
批判的な場合は感情に偏重することで
批判内容の説明責任を忌避したいという浅ましさが見える。
また、
好意的な場合は厳密にお互いの能力や善意を
精査することを放棄して、
馴れ合いを以って、やはり説明責任の忌避を期待して、
物事をなし崩しにしようとする浅ましさが見える。


何もかもが浅ましく卑しく思えるのは、
私自身の心の卑しさが鏡に映って見透かされているということか。