憐憫

この憐というのも憫というのも、どちらも「可哀相に思う」という意味では同じであるが、敢えて言うなら憐は「同情する」憫は「可哀相に思う」だ。
要するに可哀相に思って同情すること。
これを傲慢や慢心ととるべきではないのでは、というお話。

今日の日経新聞の夕刊、こころの玉手箱に北川正恭(きたがわまさやす)教授が昨日から、自分の幼少時から政治家に至るまでの話をされている。
それで今日は、子供の頃、父を訪ねて人が出入りする中、自分独りで留守番をしているときに現れ泣く泣く身の上を語るご老体にお茶を出して土産に父の煙草を二箱(まだ貧しい時代)あげた後、それなる人物は詐欺師である旨を大人から注意され、人の世を甘く見ていたと反省したと言う内容である。

どうであろうか。
泣く泣く身の上を語る人物が、金品を恵んでもらう事を目的にしていたとしても、その人生の辛さ悲しさに嘘偽りはないのではないか。
それに素直に反応して、自分に可能な範囲で労ったのは、それは素晴らしく、また人情の下には当然の行動なのではないか。

イスラム教には喜捨という、進んで自分の持ち物を物乞いにあげるということが、戒律で義務付けられている。
彼らは金利をとることを禁止したり、酒を禁止したりして、非常にストイックに(まぁ実態は脱法的に資本主義に染まっている人も多いらしいが)生きている。

組織的に相手を戸惑わせて金を巻き上げるのは、卑怯で憎むべき犯罪だ。最低である。
しかし、一対一の人間同士のやり取りとして、憐憫の気持ちから自分や家の金品を分け与えることは、一種の喜捨であると思う。
それを行う側は立派であるし、行われる側も恥ずべきではない。

原始的な農村(弥生時代など)では占有や貯蓄は罪であった。
まぁ貯蓄といっても貨幣ではなく食料などであるが、それらは一定期間で種を除いて完全に消費される。
基本的な生活に不要な余剰分は、マツリなどの場で全員で平らげる。
儒教の影響もあって、日本人は長い間、商売で儲けることを軽蔑してきた。

現在には現在の価値観があり、物事はすべて変容していくが、それは過去を否定することとは違うはずである。
私は、しばしば、現代人から愚かと言われる行動を、美しいと思ってしまう。
これは間違いであろうか。