家族の意義

家庭は何のためにあるのか。
家いえ、中国語ではjiaというのは、本来的には家の下に(冠)居る(豚のつくり)という意である。

それはすなわち雨風を避けるだけでなく、精神的にも牙城であるべきということではないか?
屋根は物理的にも精神的にも外界からの攻撃を遮ってくれる盾である。
ちなみに豚のつくり部分、居るの部分であるが、これに一本線をいれると死体という意味になり、塚の旧字体にはもう一本入る、すなわち墓の意味である。

それでは、その家に共同生活する一族、家族とは何か?
それは共に守られるものである。
ということは、その中に家族を馬鹿にして優越感を得ようとするような攻撃者がいては意味が無いのである。
しかし、現実にはDVが物理的にも精神的にも横行している。

エリートのあなた。そうあなた。
自分は知的だから暴力とは無縁と思っているかもしれないが、近年の政府の方針では、「家族に会社にいるかのような合理性を強要して精神的苦痛を与えること」もDVに定義されているのである。
そういう人間はいわばトロイの木馬だ。
「家に帰ってホッとしたい。」と思って帰ってきた者に対して、外界の価値観を以って攻撃を加える。
「お前は経済観念が無い。だから無能だ。俺のほうが優れているのだ。言う事を聞け。」
本人は自分なりに家族を良き方向に導いているつもり(本当にそんなつもりになれるのか疑問だが)かもしれない。
しかし今日明日、生きる気力や喜びを感じられないのでは、50年後に100万円程度得が出来たとしても意味はないのではないか?

確かに社会に出ると常に虚勢を張ることも必要かもしれない(とはいえ、虚勢を張るような人間を尊敬はしないが)。
だが、家でまで虚勢を張るのはなぜか?
それは外で自己実現ができない、様々な屈辱を味わっていることが辛いからである。
その憂さ晴らしを家族を利用して行うのは最低だ。
そういうストレスはむしろ職場での関係調整力で解決すべきだ。
すなわちお互いに蔑みなく競争する。スポーツマンシップである。
外ではスポーツマンシップを、内では慈しみというのが、理想である。